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2020年前期朝ドラ「エール」の主人公の古山裕一(窪田正孝)の妻になる関内音(二階堂ふみ)に影響を与える存在である双浦環(柴咲コウ)のモデルとなった、「蝶々夫人」で有名な三浦環(みうら たまき)さんの生い立ちや実話のネタバレを紹介していきたいと思います。
この朝ドラ「エール」で双浦環(柴咲コウ)はそこまで頻繁に登場するわけではないのですが、関内音(二階堂ふみ)だけでなく、古山裕一(窪田正孝)にとっても大切な切っ掛けを作ってくれた人物なので、紹介していきたいと思います。
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双浦環のモデルの三浦環(みうら たまき)のネタバレ
ここから、記事を全て読んでいただくのも嬉しい限りですが、記事が何分長いので、気になるところにジャンプ出来るように、それぞれのネタバレを項目ごとに用意しました!
気になる箇所へ飛んでみてくださいませ!
双浦環のモデルの三浦環(みうら たまき)とは
三浦 環(みうら たまき)は1884年(明治17年)2月22日に生まれ、1946年(昭和21年)5月26日に生涯を終えた日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手です。
十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名でした。
元の名は柴田環(しばた たまき)、次いで藤井環(ふじい たまき)といっていました。
日本人初のオペラ
1903年(明治36年)7月23日、奏楽堂に於いて催された日本人の手による初めてのオペラ公演に出演し、成功を収める。
1904年(明治37年)に卒業後、奨学金を得て研究科に入ると同時に「授業補助」の辞令を受けて声楽を教えるようになる。
その後、助教授となる。
この間に山田耕筰らを指導した。
1911年に帝国劇場に所属して、1912年3月レコード初吹き込みを行い、プリマドンナとして活躍を続ける。
欧米各国での活躍
1913年に柴田家の養子で医師(東京帝国大学医学部助手を経てシンガポールの三井ゴム園病院院長)の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。
しかし第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。
1915年のイギリス・デビューの成功を受けて同年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じる。
好意的な批評によって、その後『蝶々夫人』やマスカーニの『イリス』をニューヨークやサンフランシスコ、シカゴで演ずることができた(三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手である)。
その後ヨーロッパに戻りロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。
1918年にアメリカ合衆国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評であった。
1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に客演する。
1922年に帰国すると長崎に留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。
またレコードも大ヒットし、同年11月時点で東京市だけで8万枚を売り上げた。
1924年に再び渡米し、サン・カルロ・オペラ団に出演する。
1925年にシカゴに行き、アルド・フランケッティから献呈された『浪子さん』を初演する。
その後はイタリアで歌手活動を続け、1935年にはシチリア島のパレルモで『蝶々夫人』出演2000回の記録を達成した。
永住帰国
パレルモで『蝶々夫人』自身出演2000回目を達成した環は、これを機に永住帰国を決断、1935年11月に帰国。
翌1936年の6月26・27両日、東京の歌舞伎座に於いて開かれた原語(イタリア語)による『蝶々夫人』公演に自身2001回目の出演を果たした。
以後、日本国内に於いてオペラへの出演やリサイタル開催、レコーディングなどを重ねていった。
ことに『蝶々夫人』に関しては、自身による日本語訳歌詞にて上演したりもした。
しかし、太平洋戦争(第二次世界大戦)の激化から1944年3月に山梨県の山中湖(当時「中野村」→現在の山中湖村)に疎開。
その疎開先では、同じく疎開した母親の登波を看病する傍ら、ピアノも疎開先に持ち込み、地元民と気さくに交流したり、同じく疎開してきた多くの文化人らとの語らいを楽しんだりしていた。
また、子供好きの性分から、近所の子供達に歌を教えたりしていたともいわれている。
終戦そして人生の終焉
太平洋戦争の終戦から4ヶ月弱経った1945年12月1・7両日、日比谷公会堂に於いてシューベルト作曲『冬の旅』全24曲のリサイタルを計4回開いた。
この一連の公演では自身が疎開中に翻訳した日本語歌詞が用いられている。
1946年に入ると目に見えて衰弱し始め、3月には大東学園病院に入院、膀胱癌のため一人では歩けない身体となっていた。
それでも同年3月21日に日比谷公会堂でシューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』全20曲のリサイタルを開いたほか、翌4月にはNHKからの依頼を受けて計3回の録音を行った《4月5・9・16各日》。
NHKに於ける3回目の録音から9日経過した1946年4月25日、大東学園病院から東京帝国大学(現・東京大学)付属病院に転院。
手術の可能性を探りたいという医師側の意向からレントゲン検査を受けていた。
しかし、翌5月22日には危篤状態に陥り、その4日後の5月26日午前5時20分に息を引き取った。
なお、死の2日前(5月24日)には、昏睡状態の中、ドビュッシーの『バルコン(露台)』〔歌曲集『シャルル・ボードレールの5つの詩』から第1曲〕を口ずさんでいたという。
環の死去を受けて、死後2日経過した1946年5月28日に最初の入院先だった病院の母体である大東学園の講堂に於いて告別式が営まれた他、翌6月7日には日比谷公会堂に於いて音楽葬が盛大に営まれ、かつて世界三大『蝶々夫人』歌手の一人として知られたジェラルディン・ファーラーや、環との共演者の一人であるテノール歌手のジョヴァンニ・マルティネッリ等から追悼メッセージが寄せられた。
亡骸は、生前残した「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という遺言に基づき、前年(1945年)に亡くなった母・登波と共に、山中湖東岸に程近い平野部に所在する寿徳寺に葬られている。
その裏手に建立された墓碑には「うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ」と実筆の詩が刻まれている。
【エール】双浦環と関内音の出会いネタバレ
1923(大正12)年、秋。
川俣の教会で歌っていた少女・関内音(清水香帆)は11歳になりました。
関内家は、愛知県豊橋市で陸軍向けの馬具の製造・卸商を営んでいる父・関内安隆(光石研)、母・関内光子(薬師丸ひろ子)、13歳の姉・関内吟(本間叶愛)、9歳の妹・関内梅(新津ちせ)の5人家族。
音の通う学校で、学芸会の準備が始まった。
音の積極的な働きかけで、学級の演目が『竹取物語』に決定。
自分が「かぐや姫」に選ばれると思っていた音でしたが、割り振られたのは「おじいさんその2」の役。
すっかりと意気消沈し、当日の予定、教会行事での琴演奏を忘れてしまった。
父・安隆と共に教会に駆け込むも間に合わず、オペラ歌手・双浦環(柴咲コウ)の出番になっていました。
美しい歌声に心を奪われる音。
思い切って話しかけた環からレコードをもらい、音は歌への情熱が高まる。
双浦環との思わぬ再会ネタバレ
1930(昭和5)年音(二階堂ふみ)の通う音楽学校では、記念公演の二次審査が行われるも、特別審査員として招かれていた、音憧れの双浦環(柴咲コウ)に
「歌から何も伝わってこない」
と指摘されショックを受ける。
佐藤久志(山崎育三郎)から、まずは『椿姫』の世界を理解することとアドバイスを受け、社交場のカフェーで男女の機微を勉強しようと思いつき、音は1週間限定の女給として働くことにする。
ある夜、音が指名を受け席に向かうと、そこには村野鉄男(中村蒼)がいた。
古山裕一(窪田正孝)に頼まれて様子を見に来たとの事でした。
後から女給仲間の希穂子(入山法子)がやってくると、鉄男は声をあげて驚く。
2人は元恋人同士だったのだが、鉄男に社長令嬢との縁談が出ると、希穂子が突然姿を消した・・・という過去がありました。
鉄男は希穂子が東京にいるらしいと聞いて、ずっと捜していた。
鉄男が失踪の理由を聞いても、田舎が嫌になったのだと突き放すだけの希穂子。
音のお勤め最終日にも、鉄男は再訪するが、冷たく追い返されてしまうのだった。
裕一の家で、落ち込む鉄男、久志の3人が酒を酌み交わす。
そして鉄男は『福島行進曲』を作詞していた。
それは流行りの「地方小唄」で恋の歌でもあった。
裕一は一晩で曲を書き上げ、廿日市はレコード化を決定。
学生の久志は参加できなかったものの、裕一はようやくデビューできたのだった。
バンブーでレコード発売のお祝いパーティーが開催され、音は希穂子も誘った。
『福島行進曲』が流れる中、鉄男が
「この曲が書けたのは君のおかげ、一緒に生きて欲しい」
と希穂子に求婚したのですが、希穂子は良い男性と結婚が決まっている・・・と嘘をつき、涙をこらえ去っていったのだった。
数日後、記念公演の最終選考会が開かれ、椿姫の悲恋を歌いながら、音の脳裏には鉄男と希穂子の姿が浮かんでいた。
言葉とは裏腹な希穂子の気持ちを、音は気が付けるようになっていたのだった。
涙を流し歌う音を、環が優しい目で見つめ、無事音は主役に選ばれたのだった。
古山裕一の曲を双浦環が歌うネタバレ
木枯正人(野田洋次郎)から古山裕一(窪田正孝)に仕事の話が舞い込む。
木枯のヒット曲を作詞した高梨一太郎が、自身が作詞した『船頭可愛や』に曲を付けてほしいとのこと。
裕一の『福島行進曲』を聞いた高橋からのたっての希望だった。
裕一が『船頭可愛や』の作曲をすると、歌詞が高梨一太郎と知った廿日市(古田新太)は即採用。
同時に、これが最後のチャンスと宣告されてしまう。
しかし、結果的にレコードは売れず、廿日市から契約終了と、今までの契約金の返却まで求められてしまった裕一。
裕一は最大のピンチを迎えました。
音(二階堂ふみ)から事情を聞いた双浦環(柴咲コウ)は、『船頭可愛や』を聞くと自分が歌いたいと言い出します。
廿日市は世界的歌手・双浦環の提案に張り切る。
しかし、裕一が作曲する流行歌は赤レーベルで、双浦環が歌う場合は、西洋音楽の青レーベルからのレコード出版となる。
これに青レーベルの中心人物・小山田耕作(志村けん)が難色を示す。
しかし、これを環は新しい才能への脅威と見抜き、
「私は歌う」
と言い切るのだった。
環の『船頭可愛や』は発売されるや大ヒットとなった。
一方、練習の成果が出始めた音は、妊娠していることがわかりました。
それでも舞台に立ちたいという音に周囲は困惑。
音自身も、何をしても「お腹の子に障る」と言われることに苛立ちを覚えていた。
それでも、環だけはこれまで通りに接してくれるはず・・・と思い音は環に歌への情熱を訴える。
しかし、環に
「プロというのは子どもが死にそうになっても舞台に立つ人間。あなた、当然その覚悟はあるのよね?」
と言われてしまう。
これに音は絶句してしまった・・・。
2週間後、佐藤久志(山崎育三郎)から、音の声量が落ち、息も続かなくなっていると聞いた裕一は、音に
「舞台に出るべきではない」
と伝える。
音は自分がどうすればいいのかわからなくなってしまい、涙を浮かべてしまいます。
そして裕一は
「音の夢を僕に預けて欲しい」
と伝える。
いつか、裕一が作った曲を、音に大舞台で歌って欲しい・・・と。
裕一の言葉にうなずいた音は『椿姫』を降板し、退学届けを提出。
その半年後、古山家に元気な女の子が誕生した。
双浦環の“歌”への覚悟ネタバレ
時は遡り、1913(大正2)年。
若かりし双浦環(柴咲コウ)は歌の修行でパリにやってきていた。
そして、新進気鋭の画家・今村嗣人と恋に落ち、共に暮らしている。
環は周囲の注目を集め、オペラハウスで上演される『蝶々夫人』のヒロインの座をつかみ取った一方、嗣人は個展を開いても凡庸と酷評されてしまい、思うようにキャリアを積めないままでいた。
環という光の影でいることが耐えられなくなってきた嗣人は、「歌を諦めて欲しい」と環に懇願。
環は嗣人の願いを聞き入れず、“歌”を選んだのだった。
現在解っている双浦環についてはここまでとなります。
この先も環は音や裕一の前に姿を現すのか!?
楽しみにしていましょう!
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