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2020年前期朝ドラ「エール」の主人公古山裕一(窪田正孝)の妻である関内音(二階堂ふみ)モデルとなる古関金子(こせき・きんこ)さん旧姓:内山の生い立ちや実話のネタバレを紹介していきたいと思います。
関内音は、二階堂ふみさんが演じられますが、子供時代での子役は清水香帆さんが演じております。
偉大な作曲家である古関裕而(こせき・ゆうじ)さんの妻として、夫を支える古関金子さんはいったいどのように育ってきたのでしょうか。
紹介していきたいと思います。
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関内音のモデル古関金子のネタバレ
ここから、記事を全て読んでいただくのも嬉しい限りですが、記事が何分長いので、気になるところにジャンプ出来るように、それぞれのネタバレを項目ごとに用意しました!
気になる箇所へ飛んでみてくださいませ!
関内音のモデル古関金子(こせき・きんこ)とは
古関金子は1912年(明治45年)、内山安蔵、みつの三女として愛知県豊橋市で生まれる。
家族は長兄と女性6人。
家業は豊橋市に駐屯していた陸軍の第十五師団に物資を納入する業者。
父の安蔵は、金子が12歳の時に死去、その後は母親が家業を引き継ぎ、子育てをした。
金子は、幼い頃からお転婆で、音楽と文学が好きでオペラ歌手を目指していたという。
長兄の内山勝英は、満州に渡り、その地で事業を起こしていた。
金子は、1928年(昭和3年)豊橋高等女学校(現・豊橋東高等学校)を卒業後、「女人芸術」に参加、中部地方委員になる。
満州の兄のところにも遊びに行ったが、帰国の際に乗船した客船が、座礁、沈没。
金子は一時、死も覚悟した。
1930年(昭和5年)1月、金子は「福島の無名の青年が国際作曲コンクールで入賞」という新聞記事を読み、素晴らしい人がいるものだと感心し、持ち前の行動力から、すぐにその青年古関裕而に手紙を書き、ふたりの遠距離恋愛が始まる。
古関裕而は、自分と金子の関係を作曲家ローベルト・シューマンとその妻クララになぞらえて、金子を自分の音楽活動のパートナーとして共に生きる夢を描いていた。
わずか3か月の恋愛期間に、金子の詩「きみ恋し」に曲をつけたり、
「オーケストラ13曲、歌謡曲10曲、室内楽3曲、計26曲を創作、「そのすべてを『私のクララ』であるあなたに捧げます」
とラブレターの中にも書いている。
同じ時期に、金子は家計を助けるために、知人の紹介で、名古屋の雑誌発行人のもとで、雑誌の編集の手伝いを住み込みで始め、同時に声楽教師について、歌の勉強を始めている。
結婚とその後
古関裕而は、その年の6月に、金子に会いに豊橋まで来訪、金子は古関について福島に行き、そのまま結婚する。
その秋には日本コロムビアの招きで2人は上京した。
古関裕而は、日本コロムビアの専属作曲家となり、世田谷区代田に家を構える。
近くに帝国音楽学校があり、金子は声楽部本科に編入、そこでベルトラメリ能子に師事し、本格的に声楽の勉強を始める。
当時一緒に声楽を学んでいた中に伊藤久男、葦原邦子もいた。
金子の声楽の才能は抜きん出ていて、その声は中山晋平にも絶賛されたという。
ベルトラメリ能子の門下生の中では一番弟子で、『カヴァレリア・ルスティカーナ』や『トスカ』などの舞台を踏んだが、子育てに専念するため、学校を中退した。
1940年、ディーナ・ノタルジャコモに師事、古関作曲の放送オペラ『朱金昭』(チュウ・チン・ショウ)などオペラ、オペレッタにも出演したが、戦争激化でその機会も減少した。
1958年、「婦人文芸」に参加、のちに委員となる。
詩や随筆を寄稿。
1961年、古関と共にヨーロッパ、中近東へ海外旅行。
1965年、詩誌『あいなめ』の同人となり、それまでの作品をあいなめ会からまとめて刊行するきっかけとなる。
1980年(昭和55年)7月23日、乳がんが全身に転移し、68歳で死去した。
二階堂ふみ 役:関内 音(せきうち おと)
※子ども時代:清水香帆
モデル:古関金子(こせき・きんこ)
豊橋市内で馬具の製造販売を行う関内家の三姉妹、次女の音は、将来はプロの歌手として舞台に立つことを夢見ていた。
ある日、福島に住む青年の古山裕一が英国の作曲コンクールに入賞したことを新聞で知り、手紙を送り文通を始める。
二人は結婚し、音は本格的に歌を学ぶために音楽大学に入学。
夫の才能を誰よりも信じて叱咤(しった)激励し、時代の流れのなかでさまざまな困難に遭遇しながら、自らも歌手になる夢を追い続ける。
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