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朝ドラ「エール」で古山裕一(窪田正孝)とともにコロンブスレコードに所属しているギターを得意とする作曲家、木枯正人(野田洋次郎)のモデル古賀政男のネタバレについて紹介していきたいと思います。
木枯は裕一と共に、なかなか作った曲を廿日市(古田新太)に認められず、伸び悩んでいました。
ようやく曲が採用されたと思っても、思うようにいかずに二人で話し合ったり、作曲のための刺激などを求めてカフェーに行ったりとしていました。
そんな木枯のモデルとなった古賀政男さんとはどのような方なのでしょうか。
紹介していていきたいと思います。
もくじ
木枯正人(野田洋次郎)のネタバレ
ここから、記事を全て読んでいただくのも嬉しい限りですが、記事が何分長いので、気になるところにジャンプ出来るように、それぞれのネタバレを項目ごとに用意しました!
気になる箇所へ飛んでみてくださいませ!
・木枯正人のモデル古賀政男(こがまさお)のネタバレはこちらから
・木枯が裕一に仕事の依頼をする第10週のネタバレはこちらから
野田洋次郎 役:木枯正人(こがらし まさと)
コロンブス・レコード所属の新人作曲家、木枯正人が登場🎸
ロングコートがとってもお似合いの野田さんです✨#朝ドラエール#野田洋次郎 pic.twitter.com/EZBqWDUiGW— 連続テレビ小説「エール」 (@asadora_nhk) May 6, 2020
裕一と同時期にコロンブスレコードに採用された作曲家。
時間を見つけては、時折行きつけのカフェでギターの弾き語りをしている。モデルは作曲家古賀政男。
木枯正人のモデル古賀政男(こがまさお)とは
古賀政男は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。
栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫。
古賀政男の幼少期
1904年(明治37年)に福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に生まれる。
近くには水の都柳川があり、その風景は後年の『誰か故郷を想わざる』のモチーフになった。
7歳で父が死亡、田口村を離れ、働いている兄がいる朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代を過ごした。
故郷喪失の悲しみは『人生の並木路』のモチーフとなった。
朝鮮では最初は仁川に、その後は京城で暮らした。
従兄弟から大正琴をもらったのもこの頃である。
古賀政男が初めてマンドリンを手にしたのは中学3年(京城善隣商業学校)のときで、一番仲のよかった兄からマンドリンを贈られた。
古賀政男の青年期
善隣商業学校を出て大阪の商店に勤めたのち、1923年(大正12年)に明治大学予科に入学し、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画した。
当時の明大マンドリン倶楽部では、ボッタキアーリ、ラウダス、バッチなどのマンドリンの大曲が演奏されていたが、古賀自身も難曲「幻想的狂想曲」(ロマーノ)を独奏するなどの活動が見られている。
1928年(昭和3年)夏には旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図るが、同行していた友人の発見により未遂に終わる。
そのときに見た蔵王の夕暮れから名曲『影を慕いて』の詩が浮かんだといわれている。
1980年に同地に『影を慕いて』の歌碑が建立された(関連:青根洋館)。
1928年の秋の定期演奏会は同年春に開館したばかりの明治大学記念館講堂で開催されたが、このとき佐藤千夜子の知遇を得た。
また、この頃「音楽は和也(なり)」の理念が生まれた。
1929年(昭和4年)春の大学卒業後は指導者となり音楽活動を続けた。
6月、明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』(ワルツ・ギター合奏)を発表。
その年の暮れには、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、『文のかおり』など自作品をビクターで吹き込んだ。
1930年(昭和5年)秋には『影を慕いて』をビクターで佐藤千夜子の歌唱によって吹き込む。
このときは、まだマンドリン・ギター演奏家「古賀正男」だった。
また、この歌は宮城県川崎町の風景をモチーフにしたといわれている。
当時、死の淵に追われた古賀が川崎町の森林を歩いているうちに我に返りこの歌を書いたという。
1931年(昭和6年)1月、新譜でレコードは発売されたが、売れ行きは芳しくなかった。
尚、『影を慕いて』の創作過程については、菊池清麿の『評伝古賀政男 青春よ永遠に』に詳細に記されている。
古賀政男の作曲家としての誕生・活動
1931年、日本コロムビア専属となった。
当初は作曲に自信がなく文芸部の社員を希望していたが、結局、作曲家として契約した。
このとき、東京音楽学校在籍中の藤山一郎と出会ったことが古賀政男の人生を大きく変えることになった。
藤山一郎の歌唱表現が古賀政男の才能を開花させたのである。
『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』の3曲がSPレコードで発売され、以降多くのヒット曲を世に出した(なお、藤山は東京音楽学校卒業後、ビクター専属となる)。
1933年(昭和8年)には、松平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒットしたが、直後に離婚騒動などもあって体を壊し、1933年の晩秋から翌年にかけて伊東で静養した。
翌1934年、コロムビアからテイチクに移籍。
ビクターから迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディ』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』などのヒット曲を発表した。
1938年(昭和13年)秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米。
渡米直前にコロムビアに復帰した。
1939年(昭和14年)秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられた。
帰国後は『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』などがヒット曲となった。
古賀政男の戦後の活動
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に近江俊郎が吹き込んだ『湯の町エレジー』がヒット。
同年には「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立した。
1960年代には過去に自らの前で『悲しき竹笛』(万城目正作曲の『悲しき口笛』とは異なる)を歌った美空ひばりの歌の作曲を手がけた。
1964年(昭和39年)発表の『柔』は190万枚を売り上げ、1965年(昭和40年)の第7回日本レコード大賞を受賞。翌1966年(昭和41年)発表の『悲しい酒』も145万枚を売り上げるミリオンセラーとなった。
作曲活動の傍らで1959年(昭和34年)には日本作曲家協会を創設し、初代会長となる。
このときに服部良一らとともに創設したのが日本レコード大賞である。
1965年(昭和40年)以降は大正琴の普及にも努め、自作曲の大正琴レコード、オリジナルブランドの改良大正琴「KOGA TONE(古賀トーン)」を販売した。
古賀政男の晩年・死後
1974年(昭和49年)には広島平和音楽祭を開催した。
1978年(昭和53年)6月17日、明治大学マンドリン倶楽部・第102回定期演奏会(杉並公会堂)で指揮者を務めたのが、古賀自身最後の公の姿となった。
それから約1か月後、1978年7月25日の午後1時15分、東京・代々木の自宅で急性心不全により死去、享年73歳。
その死から10日後の同年8月4日、前1977年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ、史上二人目となる国民栄誉賞を贈られた。
1998年(平成10年)7月には、日本コロムビアから16枚組CD-BOX『古賀政男大全集』が発売され、3000セットを売り上げた。
古賀政男の朝ドラ「エール」のモデルとの作品
1940年:熱砂の誓ひ(建設の歌) 歌:伊藤久男“佐藤久志(山崎育三郎)”
1948年:シベリヤ・エレジー 歌:伊藤久男“佐藤久志(山崎育三郎)”
木枯が古山裕一に仕事の依頼をする
朝ドラ「エール」第10週「ふたりの夢」で、木枯が裕一に仕事の依頼をする話があります。
以下が第10週のネタバレです。
『椿姫』の練習が始まり、主役に抜擢された音(二階堂ふみ)でしたが、呼吸法や体作りから始めなくてはいけません。
そして古山裕一(窪田正孝)は村野鉄男(中村蒼)をコロンブスレコードの廿日市に紹介するのですが、『福島行進曲』が売れなかった事から取り合ってもらえず・・・。
そんな中、木枯から裕一に仕事の話が舞い込む。
木枯のヒット曲を作詞した高梨一太郎が、自身が作詞した『船頭可愛や』に曲を付けてほしいとのこと。
裕一の『福島行進曲』を聞いた高橋からのたっての希望でした。
裕一が『船頭可愛や』の作曲をすると、歌詞が高梨一太郎と知った廿日市は即採用すると同時に、これが最後のチャンスと宣告されてしまった。
しかし、レコードは売れず、廿日市から契約終了と、今までの契約金の返却まで求められ、最大のピンチを迎える。
音から事情を聞いた双浦環(柴咲コウ)は、『船頭可愛や』を聞くと自分が歌いたいと言い、廿日市は世界的歌手・双浦環の提案に張り切る。
裕一が作曲する流行歌は赤レーベルですが、双浦環が歌う場合は、西洋音楽の青レーベルからのレコード出版となる。
そのことで、青レーベルの中心人物・小山田耕作(志村けん)が難色を示すも、これを環は新しい才能への脅威と見抜き、私は歌うと言い切りました。
そして環の『船頭可愛や』は発売されるや大ヒットとなりました。
一方、練習の成果が出始めた音ですが、妊娠していることがわかりました!
それでも舞台に立ちたいという音に周囲は困惑。
音自身も、何をしても「お腹の子に障る」と言われることに苛立ちを覚えていた。
それでも、環だけはこれまで通りに接してくれるはず・・・と思い音は環に歌への情熱を訴える。
しかし、環に
「プロというのは子どもが死にそうになっても舞台に立つ人間。あなた、当然その覚悟はあるのよね?」
と言われてしまう。
これに音は絶句してしまった・・・。2週間後、佐藤久志(山崎育三郎)から、音の声量が落ち、息も続かなくなっていると聞いた裕一は、音に
「舞台に出るべきではない」
と伝える。
音は自分がどうすればいいのかわからなくなってしまい、涙を浮かべてしまいます。そして裕一は
「音の夢を僕に預けて欲しい」
と伝える。
いつか、裕一が作った曲を、音に大舞台で歌って欲しい・・・と。裕一の言葉にうなずいた音は『椿姫』を降板し、退学届けを提出。
その半年後、古山家に元気な女の子が誕生した。
※続きの第11週のネタバレはこちらから
エール第11週ネタバレ・あらすじ!父・三郎との別れと「故郷の歌」
朝ドラ「エール」の動画配信は?
朝ドラ「エール」の動画配信や、見逃し配信はNHKオンデマンドでされます。
民放ですと、TVerなんですけど、NHKはNHKオンデマンドでされます。
しかし、NHKオンデマンドでは、見逃し配信を観るのも月額制となり、サービス精神はないです。
有料登録が原則なようなので、ご覧になりたい場合は、有料登録が必須です。
しかも、見逃し配信の見放題パックで月額料金を払っても、特選ライブラリーの番組は観れません。
しかし、この朝ドラだけは、極々一部だけNHKオンデマンドでも無料登録で無料で見る事ができます!
本当に一部だけなので、どうしても朝ドラを無料で見たい場合は、NHKオンデマンドでは不可能です!
また、NHKオンデマンドで配信されているドラマはU-NEXTでも観れるので、正直U-NEXTの方が断然オススメです!
U-NEXTも月額制ではありますが、見放題なので安心して観れます♪
それでは、朝ドラ「エール」の放送を楽しみにしましょう!
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