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NHK総合で放送されている番組「今夜も生でさだまさし」佐賀県からの生放送の見逃し配信を無料視聴する方法を紹介したいと思います。動画配信といえばTVer(ティーバー)やGYAO!(ギャオ)などが思い浮かびますが、無料動画配信はそれらのサービスが全てではありません。
今回ご紹介する「今夜も生でさだまさし」の動画は現在配信されていませんが、今後配信されるとすれば、それは動画配信サービス「U-NEXT」になるのではないかと思われます。
それでは「今夜も生でさだまさし」について紹介していきたいと思います。
「今夜も生でさだまさし」佐賀県からの生放送
今夜も生でさだまさし まさか佐賀からさがまさし
7年ぶりの佐賀県からの生放送は、2022年5月に新放送会館がオープンしたNHK佐賀放送局よりお届け!まだまだ知られていない佐賀の魅力をたっぷりとお届けします!
今夜の「生さだ」はNHK佐賀放送局の1階スタジオから生放送!▽昨年デビュー50年を迎えたグレープが佐賀で生歌を披露!▽PRコーナーでは、佐賀放送局の保田一成アナウンサーが登場。温泉、グルメ、バルーンフェスタなど、佐賀の魅力をたっぷりとご紹介します。さらに、佐賀放送局開局80年を記念して地元出身のお笑い芸人はなわが作詞作曲した、令和版佐賀県のうた「さがさがさが」もご紹介します!
「今夜も生でさだまさし」の出演者
【出演】さだまさし,井上知幸,住吉昇,吉田政美,保田一成
「今夜も生でさだまさし」の詳細
ここから、記事を全て読んでいただくのも嬉しい限りですが、記事が何分長いので、気になるところにジャンプ出来るように、それぞれのネタバレを項目ごとに用意しました!
気になる箇所へ飛んでみてくださいませ!
「今夜も生でさだまさし」の概要
「今夜も生でさだまさし」は、季節の節目ごと(2010年代からはほぼ毎月)にNHK総合テレビジョンで未明に生放送されているバラエティ番組。さだまさしの冠番組でもある。略称は「生さだ」「こんなま」。
2006年元日から放送開始。2009年4月以降『今夜も生でさだまさし』の通しタイトル(シリーズ名)が用いられるようになった。本稿では、毎年年始の『年の初めはさだまさし』(としのはじめはさだまさし)や、通しタイトルが定められる以前の内容についても記す。
海外向けのNHKワールド・プレミアムでも放送されているが、第34弾までは番組編成の関係上、撮って出し形式による録画での放送(数日遅れ)がほとんどであった。その後、2011年5月1日放送の第35弾以降は日本国内とサイマル放送されるようになった(新春の放送はそれ以前から日本国内と同時放送されている)。2009年の第14弾以降はNHKオンデマンドでも放送後10日間(後に2週間に延長)、インターネットを通じて随時見ることができたが、2013年度からは配信が一旦終了。2020年3月からはNHKプラスで配信されている。また、2021年4月からはリアルタイム字幕放送を実施している。
番組の構成はさだが視聴者から寄せられたはがきを紹介し、1、2曲程度を生演奏(ほとんどの場合、伴奏はさだのギターだけ)で歌う。以下の基本コンセプトを変えずに続けられてきた。
徹底した低予算。スーパーインポーズはオープニングの番組タイトル以外には用いず、それ以外はエンドマークも含めてすべて手書きフリップを用いる。ただしニュース速報などの速報テロップ(緊急地震速報・地震情報・交通情報・気象警報など)は通常通り表示する。
歌は1、2曲程度に留め視聴者からの便りをなるべく多く読む。
投稿ははがき限定。封書での投稿は特別な理由がない限り原則的に認められない。FAXやEメールでの投稿募集は特別企画時以外は行っていない。なお、観覧募集については番組ホームページのメールフォームのみで受け付けている。
スタジオセットは背景代わりにホワイトボードを使用。必要事項は事前に書き込み、NHKの美術スタッフ小針明"画伯"が土地に合わせた絵を描く。
このうち、歌と投稿はさだがかつてパーソナリティを務めていた文化放送の深夜番組『さだまさしのセイ!ヤング』(1981 - 1994年)と同じスタンスである。また、ホワイトボードは初期はすべてさだ自身で書いていた。
このほか、頻繁に番組内で行われる事柄としては、以下のようなものがある。
商品名を伏せずに発言する。さだは番組内で「民放の番組はスポンサーの制約があって商品名などを自由に発言できない。むしろNHKの方が(放送法第83条(広告放送禁止規定)を逆手に取り)スポンサーに対する配慮がいらないので自由な発言ができる」旨のコメントをしている。なお、本番組のプロデューサーが2008年元日の放送で「偏りがなければ商品名を使用することは差し支えはない」と述べている(ただし、2009年4月29日の放送で歌われたさだの作詞・作曲によるソフトバンクモバイルのCMソングについては演奏中に犬の鳴き声を入れて歌詞を隠す対応がされた)。
テレビ情報誌の番組表を使った民放の裏番組への言及。基本的にNHKの関連会社が発行する『ステラ』を用いていたが、『2008年新春生放送』ではさだがエッセイを連載している『TVステーション』の番組表を使用した。
ホワイトボードに受信料納付のお願いを書き、ことあるごとにそれに触れる。
お天気カメラからの生中継や前日のスポーツの結果など、生放送であることを強調するための映像や情報を挿入する。
地域放送局のアナウンサー・キャスターやさだの実妹である佐田玲子(2009年度まで)による、当該地域のみ(番組によっては全国ネットの場合もあり)で放送される新番組・特別番組の宣伝。
信号を守ろうキャンペーン(2008年元日 - )、および自転車無灯火走行への言及。
さだが個人的な意見を発言した後に「意見には個人差があります」というフリップが出される(テレビショッピングなどによく見られる「効能には個人差があります」といった注意事項のパロディ)。
なお、「意見には個人差があります」というフレーズはさだがいたく気に入っており、ライブグッズとして「意見には個人差がありますタオル」や、「問題作〜意見には個人差があります〜」と言う曲もある。
さだがいわゆる世相を斬るような発言をした際には締めに「世間は許しても、ワシは許さん!」と決め台詞を叫び、『必殺仕事人』のテーマがSEとして流される。また、投稿者の善行をとりあげたハガキを読む際には締めに「世間は許さなくても、ワシが許す!」と決め台詞を叫び、『歓喜の歌』のテーマがSEとして流されるようになった。
NHKの他番組、あるいは民放とのコラボレーション企画やサイマル放送、過去の回で読まれたハガキに由来する企画(視聴者からの返信・追伸の紹介や2008年「お台場から生放送」2011年「秋の米子はゲゲゲのゲ!」の企画や2019年は当番組のほかにあさイチ・クローズアップ現代+・NHKスペシャル(以上NHK総合)・らじらー!(ラジオ第1)・ラジオ深夜便(ラジオ第1・NHK-FM)との合同で「#あちこちのすずさんプロジェクト」(2020年は当番組のほかにあさイチ・クローズアップ現代+・NHKスペシャル(NHK総合)・BS1スペシャル(BS1)・らじらー!(ラジオ第1)・ラジオ深夜便(ラジオ第1・NHK-FM)、2021年は当番組のほかにあさイチ・クローズアップ現代+(以上NHK総合)・沼にハマってきいてみた・NHK for School(以上NHK Eテレ)・らじらー!(ラジオ第1)・ラジオ深夜便(ラジオ第1・NHK-FM)との合同で実施し、未来へ 17アクションの一環として位置づけられている)企画など)。
年の初めはさだまさし(2006 - )
NHKは2001年8月5日(長崎)と2002年6月5日(宇都宮)に実験的に放送された『さだまさしの見るラジオ・聴くテレビ』を「定番」化することとして、2006年元日(1月1日)未明にシリーズの始まりとなる『新春いきなり生放送!年の初めはさだまさし』を放送した(上記の表の通り、本項ではこの回を『今夜も生でさだまさし』の第1回放送とカウントする)。この日が選ばれた理由は『NHK紅白歌合戦』の常連となっていたさだが紅白からそのままの流れで出演できること、またそれに絡んで紅白明けの歌手を飛び入りゲストに呼べることなどが理由である。
この『新春いきなり生放送!』が関東地区で5%、関西地区で6.2%という、深夜の時間帯にもかかわらず高い視聴率を記録し、反響も大きかったことから年に数回のペースで続編を制作した。次回の放送日は番組内もしくは公式ホームページで発表。放送時期は視聴者が夜ふかしできるような連休が優先されるが、さだのコンサートスケジュールと勘案して決定する。放送時間は深夜で元日放送の回のみ120分、それ以外は90分で放送。
開始当初は正式なシリーズ名などが付けられていなかったが、シリーズ第10弾の『真夜中なのに生放送 桜咲いてもさだまさし』で過去の放送リストを表示した時には「○○もさだまさし」という表記になっていた。また、「さだまさしの深夜にやっているあれ」と呼ばれたことをさだが気に入っていた。
また、2007年から2010年までは、「多滝鱒造の人生レッスン」などのコントコーナーがあった。
土曜時代( - 2022年3月)
2009年度はほぼ月1回の放送になり、「今夜も生でさだまさし」とタイトルで固定し、ロケ地にちなんだサブタイトルがつくことになった。さだの誕生日でもあった2009年4月10日には「番組タイトル ついに決定!!!」と題したさだによる予告動画が掲載され、そこでタイトル「今夜も生でさだまさし」と告知。レギュラーコーナー「まっさんぽ」を開始。スケッチブックに写真を貼り合わせ、麺類を何か食べるシーンを入れる。2011年度は、地元キャスターやアナウンサーが県の現状について報告する「まさしのふるさと通信」、2012年度にはそれを発展・改題した「まさしのふるさと3分通信」と題したコーナーが行われている。
なお、タイトルを固定するにあたり、最初は「月に一度はさだまさし」というタイトルにしようと思っていたが、放送できない月があるので取りやめたと、さだがタイトル固定の第1回で触れている。
総合テレビの番組編成で、第5金曜・土曜の翌日未明には当該曜日のレギュラー深夜番組が放送されないため、代替として第5週の週末に放送するようになる。土曜未明(金曜深夜)は0時10分、日曜未明は0時5分から放送。2009年5月から2011年度までの日曜未明は中断してニュースを放送した。このセオリー以外で放送するのは正月以外に4月・11月の回がある。
2010年度より日曜0時05分から放送。『着信御礼!ケータイ大喜利』が月3回放送され、生さだは原則毎月最終週に放送される(第1週の場合もある)。ただし、1月に関しては今まで通り元日の放送、8月に関しては最終ではなく『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』(日本テレビ系)の真裏に当たる第4土曜に放送される事が多い。
2018年度より日曜0時台(土曜深夜)が週替わり枠となる(他の3週は『シブヤノオト』『テンゴちゃん』『おやすみ日本 眠いいね!』)。
2019年度より『シブヤノオト』の毎週放送化に伴い放送開始を30分繰り下げ日曜0時35分の放送となる。
2020年より、新型コロナウイルスへの感染対策をとった放送を実施、観客を入れずに放送する場合がある。演出の工夫として、ホワイトボードの絵を3枚作成し、距離を取って座った3人を3台のカメラで撮影して合成し、従来と同じような座り方に見せている(机上の小道具や住吉のパソコンなどもワイプで切れないように置き方が配慮されている)。その期間中の2021年1月1日放送分ではさだが番組史上初めて遅刻をし、番組開始時はクマのぬいぐるみが定位置に置かれる事態となった。
2021年度からは放送開始を45分繰り上げ、土曜23:50 - 翌1:20の放送となったほか、リアルタイム字幕放送を開始した。
金曜時代(2022年4月 - )
2022年度より放送曜日を土曜から金曜へ移動。2022年4月29日放送の栃木県宇都宮市から金曜深夜の放送となった(23:45 - 30日1:15)。当初、新年度は金曜と土曜を跨いで放送(金曜23:45 - 土曜1:15)する構想だったが、昨今のウクライナ情勢により、BS1の『国際報道2022』が追加編成され23:45 - 翌0:25に放送されている関係で、実際には40分遅れで土曜日未明の放送(0:25 - 1:55)が基本化している(これにより全編土曜日放送となる)。このため、金曜を起点に放送される回はごく稀である。
なお、2022年8月26日放送の神奈川県横浜市の回では前述の宇都宮以来4か月ぶり、2度目の金曜開始の放送が実現した。
「今夜も生でさだまさし」の出演者
「さだまさし」について
「さだまさし」は、日本のシンガーソングライター、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。
フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4,400回を越えている。
トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。身長165センチ。
生い立ち~青年期
父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、1952年4月10日、長崎県長崎市で生まれる。
佐田家の本家は島根県那賀郡三隅町(現:浜田市)にあり、本家の二男だった祖父・繁治は中国大陸や極東ロシアに渡り諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主である。その繁治と結婚した祖母エムもまたソ連(現:ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である。父・雅人(1920 - 2009)は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子(1926 - 2016)と結婚し、その結果、雅志が誕生したのであった。
雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった(ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる)。
3歳よりヴァイオリンを習い始める。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していた。中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごした。
最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたという。中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで京成本線高架や市川橋の下に行っていたという(なお、当時はNHK連続テレビ小説『おはなはん』にはまって38日間連続して遅刻する、といった調子の生活をしていたという)。
上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまう。家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。
グレープでデビュー
國學院大學法学部に進学する。ペンキ屋(塗装工員)など、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。1972年、高校時代からの友人吉田正美(現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなった。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日、バンド「グレープ」を結成、音楽活動を開始する。11月25日、NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属事務所(プロダクション)はユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的には赤い鳥の事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、デビューに至った。
デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー・蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、同番組の放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞することとなった。
1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。
ソロ歌手への転向
1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。
1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」などがヒットする。
1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリースした。同年7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなる。以後「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「驛舎」など、数々のヒット曲を放つ。
1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当。一方、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり)さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金(負債)が残ってしまった。(大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。
1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。
1985年、ソロ・コンサート通算1,000回(東京厚生年金会館)を達成する。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型である。
1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催した。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。
1993年、ソロ・コンサート通算2,000回(大阪フェスティバルホール)を達成した。
1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。
1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。
2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱した。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う(女性は1994年の髙橋真梨子が初)。
2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされた。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説「精霊流し」の世界』を発売した。
児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞する。
2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。
2004年12月、長編小説『眉山』発表。
2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選サッカー日本代表対イランの試合にて「君が代」を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。
2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いている。
2006年4月、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。
2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。
2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞する。
2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。
2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われた。
2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。
2010年7月16日、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。
2012年6月10日に本門佛立宗横浜の妙深寺、法深寺主催。パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。
2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート( - 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。
2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。
2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。公式インスタグラム開設と「PPAP〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表。
2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社をJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに移籍することが決定。同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。5月27日、第85回日本ダービーで国歌「君が代」を独唱。
パーソナルデータ
國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。
趣味はゴルフ、パチンコ、競馬など。
身長は165cm。血液型はA型。
家族
既婚。1983年に結婚し、一男一女の父である。
弟はさだ企画社長で「日本人初のプロサッカー選手」の佐田繁理。妹は歌手の佐田玲子。長男はユニット「TSUKEMEN」のメンバーとして2010年にメジャーデビューしたヴァイオリニスト・TAIRIKUこと佐田大陸。長女は2011年にメジャーデビューしたピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーでゴスペラーズ・北山陽一の妻・詠夢。
「さだまさし」のシンガーソングライターとして
メロディーの傾向
西洋のポピュラー音楽やクラシック音楽の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々ヤッシャ・ハイフェッツに憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった。
自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。また、時にクラシックからの引用が見られる。
活発なコンサート活動
さだのコンサート回数は2013年7月には4,000回に達し(オリコン調べによる、3,000回を超えている日本人のプロ歌手はさだまさしのみ)、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことが一つのきっかけだった。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行うようになった。なお、30年以上をかけ最終的に債務は完済している。しかし、その後もコンサートの年間開催回数に変動はなく2020年8月17日のチャリティーコンサートで4425回を達成している。
さだの作品には、「飛梅」「まほろば」「修二会」など仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、太宰府天満宮や東大寺などの神社仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか東大寺大仏殿・薬師寺・平安神宮など、寺社でのコンサートも数多く行っている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。
1980年代前半、中国へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために日本航空のDC-8貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2012年現在、さだのみである。
影響を受けたアーティスト
中学1年生の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている。ポール・サイモンが1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、ニューヨークまで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある。
その次にさだが大きな影響を受けたのが加山雄三だった。「君といつまでも」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先に住んでいた青年のギターを借りて全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという。他にブレッド(デヴィッド・ゲイツ)のバラードタイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。
同世代の日本のシンガーソングライターにはビートルズやボブ・ディランの影響を受けた者が多い中で、加山雄三やサイモン&ガーファンクル等の影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である。
また中村八大、永六輔の影響を大きく受けているとも語っている。
「さだまさし」の噺家として
さだは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と落語研究会に所属していた。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。
コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋りという、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり、その内容はほとんど落語か漫談のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。
落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向けにオールリクエスト・コンサートを行った際には、歌だけでなくどのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手ではあり得ないようなことまで行われた。
このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。
1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている。
2012年のデビュー30周年ツアー「さだまつり」では、1日目はバンドメンバーもなしでほとんど歌わずしゃべるだけ、歌う時もさだのギター1本。そして2日目はほとんどしゃべらず歌うだけで、しかも「きだまきしとテキトージャパン」によるショーまである、という2夜連続コンサートを行った。ツアーを終えてさだは「非常に疲れた。やっぱり歌としゃべりが適度に混じっているのが一番いい」と語っている。その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが、番組内で歌われた歌はたった3曲で、ほとんどの時間をトークで進め、裏番組の番組名を読み上げたり、NHK紅白歌合戦を暗に批判するなどした。
同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関しては「今夜も生でさだまさし」を参照。
内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで30億円前後もの借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、松山千春は『フォーク界御三毛』」などと話す。
「さだまさし」の小説家として
小説のデビュー作はグレープ解散時期に出版した『本-人の縁とは不思議なもので…』(1976年3月、八曜社)収録の「超人達のコーヒーブレイク」である。その後ファンクラブ会報『まさしんぐworld』に「泣いた赤鬼」、「出雲路」などを連載する(その後「さまざまな季節に」(1981年11月、文藝春秋)に収録)。
2001年、テレビ朝日で放送されていた『ほんパラ!関口堂書店』の番組企画をきっかけに、幻冬舎社長見城徹の指導のもと、自伝的小説『精霊流し』を刊行し、ベストセラーになった。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。
『精霊流し』はNHK・夜の連続ドラマとして2002年にドラマ化(『精霊流し〜あなたを忘れない〜』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『愛し君へ』(2004年)の原作となった。
2004年には、第3作『眉山(びざん)』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には東宝制作で、犬童一心監督により映画化された。
さだは『精霊流し』以前にもアルバム『ADVANTAGE』と『自分症候群』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に新潮文庫から『自分症候群』として出版)。このほか、上記2アルバム以外のオリジナル・アルバムの殆どに、各曲毎に自らの手による「ライナーノーツ」が付されているのも特徴的であり、これを通じて、各楽曲の成立過程、さだの想い入れ、背景、テーマ等をよく知ることができる。
童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてひろすけ童話賞を受賞した。
さらにエッセイも数多く、毎日新聞や新潮社の雑誌『旅』(完了)、ダイヤモンド社の雑誌『TV Station』などへの連載も行っている。『さだの辞書』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定。
「今夜も生でさだまさし」の放送内容
「今夜も生でさだまさし」うかい!ツーカイ!美濃がせナイト
今夜の「生さだ」は長良川温泉のホテルから生放送!野口五郎と岩崎宏美が登場。さだと3人で岐阜を代表する“鵜飼”の観覧へ。さらにデュエット曲を生披露!
岐阜県出身の野口五郎が「生さだ」初登場!さだまさし、岩崎宏美とともに岐阜県の伝統漁法“鵜飼”を観覧船から見届ける!▽野口と岩崎がデュエット曲「好きだなんて言えなかった」を深夜に熱唱!▽PRコーナーでは、岐阜放送局が制作するSDGsミニドラマや、外国の方と互いの文化、価値観の共有を目指す企画「ふうどトレード」、県民の声を届ける「ぎふボイス」など岐阜の魅力を伝える取り組みを紹介!
「今夜も生でさだまさし」の出演者
【キャスター】さだまさし,【出演】井上知幸,住吉昇,野口五郎,岩崎宏美
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