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フジテレビで放送中のバラエティ番組「ドリフ&志村けんのバカ殿様」豪華絢爛!笑いの春祭りスペシャルの見逃し配信を無料視聴する方法を紹介したいと思います。動画配信といえばTVer(ティーバー)やabema(アベマ)、TVer(ティーバー)やabema(アベマ)、Netflix(ネットフリックス)などで観れるか、YouTube(ユーチューブ)やbilibili(ビリビリ)、Dailymotion(デイリーモーション)、9tsu、miomio、Pandora(パンドラ)などが思い浮かびますが、無料動画配信はそれらのサービスが全てではありません。
今回ご紹介する「ドリフ&志村けんのバカ殿様」の動画は現在配信されていませんが、今後配信されるとすれば、それは動画配信サービス「U-NEXT」になるのではないかと思われます。
それでは「ドリフ&志村けんのバカ殿様」について紹介していきたいと思います。
「ドリフ&志村けんのバカ殿様」の詳細
ここから、記事を全て読んでいただくのも嬉しい限りですが、記事が何分長いので、気になるところにジャンプ出来るように、それぞれのネタバレを項目ごとに用意しました!
気になる箇所へ飛んでみてくださいませ!
「ドリフ&志村けんのバカ殿様」の概要
フジテレビが「ドリフ&志村けんのバカ殿様 豪華絢爛!笑いの春祭りSP」を、21日(午後7時)から放送する。志村けんさん演じる国民的人気キャラクターと豪華ゲストによるコラボコントなど、貴重映像満載で放送する。
今回は“豪華絢爛(けんらん)”のタイトルにふさわしく、これまでの爆笑コントのなかでも超貴重なコラボコントをラインアップした。なかでも注目は、今もその歌唱力で大きな支持を得ている中森明菜が、かつて志村けんさん演じる「バカ殿様」と繰り広げた抱腹絶倒のコント。中森扮(ふん)する城下町の町娘に、お忍びで城を抜け出していたバカ殿様が一目ぼれするところから始まって行くというコントなのだが、加藤茶演じる江戸っ子大工の軽快な絡みもあって、まさにドリフの世界観が随所にちりばめられた珠玉の作品は見逃せない。
さらに、現在放送中のドラマ「罠の戦争」(月曜午後10時)で主演を務める草なぎ剛が、バカ殿様の家臣として登場したお宝コントも蔵出しする。城の中を案内してもらう草なぎ扮(ふん)する家臣をさまざまな仕掛けが待ち受けるコントをお届けするほか、志村さんの名物キャラの1つでもある「いいよなおじさん」にも挑戦し、本家に負けないくらいの演技っぷりを見せる草なぎの姿は必見だ。
そして、出川哲朗が「志村けんのバカ殿様」に初登場した際の秘蔵映像も登場。「私を家来にしていただきたい!」とバカ殿様に志願しにやってきた出川が、家臣であるダチョウ倶楽部の上島竜兵さんと、まさに“体を張った”対決の様子は見応え十分。リアクション芸人の2人が喜々として挑戦する「根性対決」の数々がよみがえる。
ほかにも「ドリフ大爆笑」の名作中の名作であり、「志村けんとドリフの大爆笑物語」で見事なまでの再現も話題を呼んだ、「階段落ちコント」のオリジナル版も放送。新選組を元にした時代劇の映画撮影をテーマにした加藤茶と志村さんの軽妙なやりとりが生みだす笑いの波は、令和の夜に大きな笑いを呼ぶこと間違いなしだ。
国民的キャラクターとも言える「変なおじさん」や「ひとみばあさん」も登場。優香やダチョウ倶楽部といったおなじみのメンバーに、笑福亭笑瓶さんや橋本マナミとのコント作品も取りそろえて豪華絢爛(けんらん)にお届けする笑いの花咲く2時間SPから目が離せない。
「ドリフ&志村けんのバカ殿様」の出演者
「志村けん」について
「志村けん」は、日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。東村山市名誉市民。
ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍する傍ら、亡くなるまで自らが持つ番組でコントを披露し続け、芸能界に大きな功績を残した日本を代表するコメディアンである。生前時は渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに所属していたが、同じザ・ドリフターズのメンバーで、2004年(平成16年)に死去したいかりや長介と同様に没後もイザワオフィスに籍を残している。
1973年までの旧芸名の表記は「志村 健」。ドリフでの初期には「志村 ケン」名義での表記もあった。本名は志村 康徳(しむら やすのり)で、構成作家としては本名名義でクレジットされた。
小学校教諭だった父・憲司けんじ(1918年〈大正7年〉- 1973年〈昭和48年〉)と母・和子かずこ(1919年〈大正8年〉- 2015年〈平成27年〉)の三男として東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる。2人の兄(長男・知とも之ゆきと次男・美み佐さ男お)は大学を卒業して公務員になったが、自身は大学へ行かず、異なる人生を歩むこととなった。なお、芸名の「けん」は父の名前から取ったものである。
「志村けん」の小学校時代
変なことばかりやっており、そのきっかけは小学校1年の運動会でウンコをもらしたことで、そのイメージを消そうとおもしろいことをやり始めたという。小学4年の頃は友人宅で落語のレコードを聴き、それを真似て学級会で酔っ払いのコントを初披露している。
「志村けん」の中学校時代
父が厳格な人物で家庭に笑いがなかったため逆に笑いにすごく飢えていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来たという。志村によれば「お笑い番組を観ている時だけは、親父も声を出して笑っていた」と語っており、その体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。
志村が中学生だった頃の父は教員として毎日決まった時間に職場に行って帰ってくる生活をしており、そんな生活は耐えれないと思っていたという。校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、志村はそれを「つまらない人生だな」と思っていたとのこと。
この頃、自分の小遣いのために家の近所でバイトを経験しており自らを「コツコツ型で努力家」と評している。
東村山市立東村山第二中学校在学中は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの遠戚とバンドを組んだこともあった。ビートルズのファンで、その反骨精神に惹かれて影響(長髪と服装)を受けた。
「志村けん」の高校時代
両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校に進学し、同高の第1期生となる。中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけだった。同高では気になる女性と同じ時間に下校するためにサッカー部に所属し、ゴールキーパーとして活躍した。
中学に続いて高校でも文化祭でコントを披露しており、腹巻きにステテコの姿で口のまわりを黒く塗って、てんぷくトリオみたいな格好した写真が残っているという。応援団長として、応援にコント55号の動きを取り入れて「なんでそうなるの?」というギャグを取り入れたりもした。校内では仲の良い友達と化学の授業用の白衣で偉そうに先生みたいな顔をして歩いたりしていた。
高校2年生の時に日本武道館でのビートルズ来日公演を観に行っている。高校は制服だったが、ビートルズの影響で長髪にタートルネックで学校に通っていた。
バイトはゴルフ場のキャディや運送屋をしていた。
この頃、父は交通事故の後遺症でボケており弟子入りに関して両親の反対は無かった。
付き人から芸能界デビューを経てドリフターズ入り
1968年2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。
由利徹、コント55号、ドリフのいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校2年時に由利徹を訪ねて弟子入りを志願したが、大学に行ったら気が変わると言われ断られている、これがきっかけで高卒で芸能界に入ることを決心する)。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っている。
1週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式にドリフのボーヤとして採用を告げられた志村は「じゃあ(高校)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った。 この時の月給は4500円だった。
脱走
加藤茶の付き人となるも、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人として、加藤家に居候する。
マックボンボン結成、消滅
1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。 動いて笑わす野球のネタや、ゴールデンハーフのネタ、高齢者向けに雲の上団五郎一座のお富さんなどを前座で披露している。
年齢によって内容を変え何があっても客のせいにしないことをモットーとした。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎えるが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅した。
メンバー見習い
志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した[注 14]。当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。
正式メンバーへ
1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日にドリフの正式メンバーに昇格した。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、及びすわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。
「東村山音頭」でヒット
ドリフメンバーとなり、ギターを担当するようになった。ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、ギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。
転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。
当時、メンバーから東村山の田舎者扱いされていた志村は意地になって稽古中に東村山音頭を歌っていたところ、それが受けて舞台で試すこととなった。 初出は1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向だった。
そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した。
いかりやがツッコミであるドリフではボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある。『全員集合』の後半コントなどでも、女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。ビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。
また、沢田研二とのコント内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが人気を呼ぶ。1979年には加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜」(童謡『七つの子』の替え唄)が人気を博した。
1981年2月18日、仲本工事、TBSプロデューサーの居作昌果と共に競馬のノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭金が多額だった仲本と居作は略式起訴で罰金刑となったが、志村は賭金が1万6千円と少額だったことから起訴猶予処分になった。
この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがあるなど、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。
ピン活動
1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しむ。
1988年の大晦日には、山中秀樹と共にニュース番組『デイトライン特別版』のキャスターを担当した。
1996年にはゴールデンタイムのレギュラーから深夜枠で『志村〝X〟』『志村〝XYZ〟』『Shimura〝X〟天国』を2000年まで担当した。
死亡説
1996年9月頃、突如として「志村けん死亡説」がパソコン通信などを通じて全国的に流布する。
噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県の赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」「たばこの吸い過ぎが原因の肺がんで、栃木県立がんセンターで死んだ」「栃木県の国道で交通事故に巻き込まれて事故死した」「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない(この時期に亡くなった渥美清が遺言に「四十九日法要が済むまで公表するな」と書いていたことからとされる)」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村(康徳)さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。
この件について、志村の付き人兼ドライバーだった乾き亭げそ太郎は、志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了し、関東ローカルの深夜帯に移り露出が減ったこと。更にスケジュールに余裕が出来たことで目立つリムジンで宇都宮市のゴルフ場へ行くことがふえ、その近所に栃木県立がんセンターがあったことで目撃者が誤解したとしている。
騒動が収まったのち、高木ブーが自身が聞いた発生説として「この時期に『しむらけん』という人が北関東地方で亡くなり、それが志村と混同されたからだ」と語っている(志村の本名は康徳であり志村けんは芸名である)。
その後
1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなっていった。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものだった。
1998年12月30日、『21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜』後半部では、加藤と共に出演した。
一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていた志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』には出演した。自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。
その後、「鉄道員」出演以降は一部の声優業を除いて映画には1度も出演した事が無かったが、2020年12月に公開される予定だった映画『キネマの神様』にて菅田将暉とダブル主演を務めることが告知され、これにより『鉄道員』以来約20年ぶりに映画出演を果たす予定であった。しかしながら、新型コロナウイルスに感染したことで辞退を余儀なくされ、結局出演を果たせぬまま2020年3月29日に合併症の肺炎で死去した。志村の代役は沢田研二が務めることとなった。
『バカ殿』で共演していた東八郎に「東さんはいい歳になってもなぜ馬鹿な演技が出来るのでしょうか?」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。
1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事だった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴だった)。当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演だったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。
「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日に放送された『わたしはあきらめない』でも語っている。しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔・コント用メイクのどちらでも出演するようになった。
2000年代になってからは健康オタク、動物愛好家としても知られ、お笑いタレントとしてのみならずコメンテーター的存在としても活動していた。但し、トーク主流のテレビ番組のあり方については、持論として、いくつかの雑誌などでのインタビューで疑問符を投げかけていた。
また、テレビ不況についても嘆いており、自身のコントでも「クイズ番組が多すぎる」「時代劇が不振」と苦言を呈していた。お笑いの賞レースやコンテストで審査員を務める事もあり、コント専門ながら漫才の大会であるTHE MANZAI2014では審査員として出演した。また、歌ネタ王決定戦でも第2回、第3回大会で審査員を務めた。
2001年12月には「けん♀♂けん」名義で、研ナオコとのデュエット曲「銀座あたりでギン!ギン!ギン!」をリリース。さらに翌2002年4月には「バカ殿様とミニモニ姫。」として、ミニモニ。とのコラボレーション・シングル「アイ〜ン体操/アイ〜ン!ダンスの唄」をリリースした(いずれもつんく♂がプロデュースを担当)。
2001年12月、盗撮事件による謹慎が解けたばかりだった田代まさしが、男性宅の風呂を覗き見および覚醒剤所持で再び逮捕されたことに対し、田代の芸能界復帰を支援していた志村は桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」と田代を突き放すコメントをした。しかし、2009年11月、志村の楽屋に田代が訪れて土下座をしたことを自身のブログで報告し、ブログ上で田代にエールを送った。
2004年4月15日、自身がMCを務める『天才!志村どうぶつ園』が放送開始。元来の動物好き、シャイで涙もろい志村の人柄をそのまま活かし、人気番組となる。
2004年12月7日、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計や宝石類1,000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、のちに「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。後に『天才!志村どうぶつ園』でこの事件が取り上げられた際、ペットの犬たちは人懐こいため泥棒に吠えなかったことが明かされ、「番犬にならない」と苦笑した。また、ホームセキュリティに加入していたにも拘わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。当時、志村は『発掘!あるある大事典Ⅱ』の収録の為、大阪に行っている最中に起きた出来事である。
2005年、ビートたけしと組んで1時間半のコント番組『たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!』を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には、志村の三味線とたけしのタップダンスの競演が披露された。
2006年4月、「理想のお笑い」を追求すべく、東京芸術劇場で『志村魂(しむらこん)』と銘打った舞台を上演する。前半に「バカ殿様」とコント1本、後半は藤山寛美の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』をラサール石井がリメイクした舞台を上演した。
2006年より、自身のブログを更新していた。ブログでは日々の生活などが書き込まれており、60代からは体調の変化について書き込まれることも増えていた。
2007年6月には、東京芸術劇場と中日劇場で第2弾『志村魂2』を上演。第1弾の演目に加え、「津軽三味線」が上演された。
2008年5月から7月には、全国で第3弾『志村魂3』を上演。後半に藤山寛美の作品『人生双六』をリメイクした舞台を上演した。
2009年7月、銀河劇場と中日劇場で第4弾『志村魂4』を上演。2010年7月から8月にかけて、全国で第5弾『志村魂 -初午の日に-』を上演し、後半に『初午の日に』を上演した。2011年7月には、銀河劇場で第6弾『志村魂 -初午の日に-再び!』を上演。
2012年6月から同年7月にかけて、全国で第7弾『志村魂 -先づ健康-』を上演し、後半に『先づ健康』を上演した。
2015年11月23日に「一番のファン」だった実母が老衰のため死去。96歳没。ブログではたびたび「母に感謝す」と記していた志村は「天国からまだまだ応援見守って下さい」などのコメントを発表した。
体調不良
2016年8月19日、肺炎で入院した事が判明した。これに伴い、8月20日および21日に予定されていた公演『志村魂』の大阪・新歌舞伎座公演は中止することになった。その後、8月31日に退院している。それまでは1日に3箱のたばこを吸うほどのヘビースモーカーであったが、この件にショックを受け、その後禁煙をした。
ただ、長年の喫煙習慣が一因となり肺気腫を患ったとされる。また、酒に関するエピソードも数多い一方で2018年に肝硬変と診断され、当時周囲に「バカ殿はもうできない」と弱音を漏らしていた。
2020年2月22日、東京都内で開かれた誕生日パーティーで胃の切除手術を受けたことを告白。その際に志村は詳細を語らず、胃癌だったのではないかと出席者から心配の声が出たものの、所属事務所によると、健康診断でみつかったポリープ切除の内視鏡手術で1月に4日間入院していたとのことで、直接的に仕事に影響を及ぼすことはなかった。
新型コロナウイルスへの感染と死去
2020年3月17日に倦怠感を訴え、自宅で静養。同月19日に発熱と呼吸困難の症状が出始め、翌20日に医師による訪問診察で重度の肺炎と診断され、東京都港区内の病院に緊急入院となった。入院後、21日に人工呼吸器に切り替えた段階から意識はなかった。入院の際に新型コロナウイルスの検査を実施したところ、23日に陽性と判明した。
24日に人工心肺が必要と診断を受けて、新宿区の国立国際医療研究センター病院へ転院してECMOを装着。入院時には肺に影も見られ、一時は気道を確保する気管挿管の処置も取られた。また、同日には保健所による調査で、3月17日が発症日であることと濃厚接触者の特定が完了したが、感染経路については不明とされた。
検査結果を受け、同年12月公開予定だった自身初の主演映画『キネマの神様』のクランクインが延期となり、3月26日、同作への出演を辞退したことを所属事務所が発表した。2020年3月29日23時10分、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に伴う肺炎のため、死去。享年71(70歳没)。
死去の時点で自身の舞台志村魂、志村けんショーの地方公演の予定が組まれていた他、映画主演、朝の連続ドラマに出演が決まっており、俳優業にも本腰を入れて掛かろうとしていた矢先の悲劇だった。志村の訃報は翌30日の9時40分頃から各テレビ局のニュース速報で報道された。
速報が出た当時は大半のテレビ局が朝の情報番組の生放送中であったため、志村の訃報を知って驚く出演者達の様子が映し出された。中でも当時『スッキリ』のレギュラー出演者で、志村とは「志村どうぶつ園」等で共演しており親交があった近藤春菜は生放送中に志村の訃報に接し、大変ショックを受けて号泣した。
「ドリフ&志村けんのバカ殿様」の放送内容
「ドリフ&志村けんのバカ殿様」豪華絢爛!笑いの春祭りスペシャル
今夜しか見られない中森明菜&志村けん&加藤茶の伝説バカ殿様の超貴重コントに草彅剛がいいよなおじさんに変身!出川哲朗VS上島竜兵対決!笑福亭笑瓶も登場!
国民的名物番組の『ドリフ大爆笑』や、志村けんさんの代表的冠番組である『志村けんのバカ殿様』『志村けんのだいじょうぶだぁ』で放送された膨大なコントの数々から『ドリフ&志村けんのバカ殿様 豪華絢爛!笑いの春祭りSP』と題し、志村さん演じる国民的人気キャラクターと豪華ゲストによるコラボコントなど、笑いの花が咲くこと間違いなしの貴重映像満載でお届けする!
「バカ殿様」だけでなく国民的キャラクターとも言える「変なおじさん」や「ひとみばあさん」も登場!優香やダチョウ倶楽部といったおなじみのメンバーとのコント作品も取りそろえて豪華絢爛(けんらん)にお届けする、笑いの花咲く2時間SPを、是非ご家族揃って楽しんで頂きたい!
「ドリフ&志村けんのバカ殿様」の出演者
【VTR出演者】
ザ・ドリフターズ(いかりや長介、高木ブー、仲本工事、加藤茶、志村けん)、いしのようこ、草彅剛、桑野信義、笑福亭笑瓶、竹脇無我、ダチョウ倶楽部、出川哲朗、中森明菜、橋本マナミ、優香 ほか
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